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本光院(ほんこういん、元禄5年(1692年) - 宝永7年7月25日(1710年8月19日))は、江戸時代の女性で、甲府藩主(後の6代将軍)・徳川家宣の側室。俗名は斎宮(いつきのみや)。名はいつき、または園。 == 生涯 == 徳川忠長の旧臣である小尾正直の子息・小尾直易の4女として生まれた。〔卜部典子『人物事典 江戸城大奥の女たち』p173〕〔『幕府祚胤伝』によれば斎宮の父・直易は徳川忠長に仕え、後に浪人となり甲府に住んだことになっているが、忠長が自刃したのは寛永10年(1633年)であり、斎宮が召し出された宝永年間から計算すると、直易は100歳近い老人になってしまう。忠長に仕えていたのは直易の父・(彦左衛門)正直であり、彼は寛永19年(1642年)に徳川家光に召し出され、360石を賜っている。〕 宝永6年(1709年)7月半ばの頃より、家宣は御浜屋敷に出向き、そこを管理していた小尾直易の娘であるいつきを側室に申し立てる。その約1ヶ月後にいつきは大奥入りし、その際に名を斎宮に改めた。 宝永7年(1710年)に懐妊するが、7月24日に流産してしまい、翌7月25日に没した〔『幕府祚胤伝』には「七月廿四日、御産の催しこれ有りしか、御血荒れ、この病悩により翌廿五日死す」とあり斎宮の死因を流産と説明している。尚「日本史サスペンス劇場」(日本テレビ)において、斎宮は庭石から足を踏み外して転倒したため流産したと説明された。〕。戒名は「本光院妙秋日円大姉」。 墓所は東京都墨田区にある常泉寺。斎宮の墓碑には徳川家の象徴である三つ葉葵の御紋が刻まれており、歴代将軍の側室で、そのような待遇を受けた人物は他にはいない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本光院 (徳川家宣側室)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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